書評/山本美芽『21世紀ヘのチェルニー』

2017年1月24日

山本美芽『21世紀ヘのチェルニー 訓練と楽しさと』山本美芽さんの著書『21世紀ヘのチェルニー 訓練と楽しさと』は、ここ数年で最も影響を受けた音楽書だ。40歳以上のピアノ好きの大多数は、かつて子供の頃、「チェルニーの練習曲集は必ずやるもの」として育ったのではないだろうか。

私も40歳でピアノを再開した際、まず「チェルニー30番練習曲」を全曲やり直すことから始めた。幼少の習慣とは大きい。「ピアノの練習といえば、チェルニーをやらねば落ち着かない」という強迫観念にずっとさいなまれてきた。平成生まれの子供はきっと多様性あるピアノ教育を受けていると思うが、昭和のピアノ少年少女にとってチェルニーの練習曲はカルトのようなものだった。

そんなチェルニー教の呪縛を解いてくれたのが、この『21世紀ヘのチェルニー 訓練と楽しさと』と、師匠のレッスンだった。

冷静に考えると当たり前なのだが、カール・チェルニーはベートーヴェン、クレメンティ、フンメルの弟子で、リストの師匠である。彼の生きた時代はピアノという楽器が中産階級に普及し、ピアノ音楽が花開こうという時代だった。チェルニーはドビュッシーやスクリャービンの音楽は知らなかった。なので、古典派ソナタを演奏するためのテクニックは網羅されているが、彼の練習曲をいくらやっても、倍音を生かした微妙な色彩を紡ぐことはできない。

中学生くらいになり、ある程度、頭で考えるようになって、クラシック音楽の歴史に興味を持つ生徒は、この矛盾に何となく気がついていたはずだ(少なくとも、私はそうだった)。ところが、多くのピアノ指導者は「チェルニーは基礎基本だから練習するべき」という考えにとらわれていた。

実は高校時代、私が習っていた先生にその辺りの疑問を尋ねたことがある。その時の先生の回答は「ツェルニーは一つひとつ進んでいく喜びがあるわよ」だった。先生なので、その時反論はしなかったが、私はちっとも「喜び」を感じることがなかった。

この背景には何があるのか? 山本美芽さんはこのように書いている。

日本社会の封建性、音楽は修行であるという意識、模倣し徹底反復する<型>の考え方、物質的にも情報にも恵まれなかった時代背景、ピアノ演奏家や教師の層の薄さ、「競争に遅れてはならない」という恐怖にも似た防衛本能‥‥。それらはすべて、チェルニーをすみずみまで徹底的に反復練習する方向に作用したのではないだろうか。

まさに。昭和の少年少女にとって、ピアノとは「おけいこ」だったのだ。

ちなみに、師匠・金子勝子先生に初めてレッスンを受けた際も、チェルニー40番の練習曲を持って行った。レッスンが終わって、「チェルニーはチェルニーでいいところもあるわね」という師匠の言葉にびっくりした。チェルニーの練習曲って、“いいところもある”程度なのかと。

私は、金子勝子ピアノ教室の生徒がチェルニーの練習曲を弾くのを見たことがない。その一方、バッハの「インベンションとシンフォニア」は全員が弾いている。

ただ、チェルニーの練習曲がまったくダメだとは思わない。古典派ソナタを弾く場合、チェルニーの<型>の有用性はあるとは思う。“道具”としての有用性だ。用いる道具なのだ。道具である以上、何に使うのかが大切だ。「三度のトリル」「左手のアルペジオ」など、習得するべき型が明確であれば、チェルニーの練習曲は、近道を掘るスコップ、ツルハシになるとは思っている。

チェルニー教の呪縛にとらわれている昭和に育ったピアノ少年少女は、ぜひ読んでほしい一冊だ。


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