川島なお美のLP『シャワーのあとで』の思い出

川島なお美『シャワーのあとで』川島なお美さんが亡くなりました。

ドラマ『失楽園』やワインで知られる彼女ですが、私の中では彼女のイメージは、女子大生アイドルだった頃のまま。なんせ、iTunesで女子大生時代のアルバムをダウンロードして、今なお通勤時にときどき聴いていますので。

今夜はそんな思い出を綴ってみます。

私と三つ歳下の弟は、小学生の頃、一緒にピアノを習い、二人ともピンクレディが大好きな仲良し兄弟でした。けれど、思春期を過ぎた頃には、好きな音楽も好きなアイドルも別々の道を歩み始めました。ま、兄弟の成長とはそんなものですね。

ところが、思春期を過ぎて後、兄弟で唯一共通の(いやバッティングした)アイドルが川島なお美でした。

先にハマったのは弟でした。ある日、弟の部屋に足を踏み入れると、机の上に川島なお美のLPレコード『シャワーのあとで』と、アルバム名と同名のエッセイが置かれていました。何気なくプレーヤーに針を落としてみると、華やかな東京の女子大生ライフが流れ、ムサい男子部屋が港区青山のおしゃれマンションに変化したことを思い出します。

アルバム『シャワーのあとで』は1983年リリース。当時、私は高校2年生、弟は中学3年生でした。二人とも大学までエスカレーターの中高一貫校に通っており、すぐ隣の大学では、女子大生たちがテニスにスキーにと、80年代のキャンパスライフを謳歌しているのを身近に見ていました。なんて、大学生って楽しいのだ!と。

そんな中でも青山学院大学の女子大生、川島なお美は別格でした。なんてたって、花の東京、港区青山の女子大生ですから!

私は18歳まで東京に出かけたことはなかったけれど、アルバム『シャワーのあとで』と、彼女のエッセイに描かれたキャンパスライフは、ティーンズの心に青山・表参道のシティライフ(笑)に対する強烈な憧れを醸成。その思いは30歳の上京へとつながります。

アルバム『シャワーのあとで』、シングルでも発売された中原めいこ作詞・作曲の「GEMINI」が一番知られていますが、ほかにも秋元康、杉真理らのクリエーターが参加。80年代の“翔んだ”“ナウい”ライフスタイルを垣間見ることができます。

iTunesプレビューで視聴できます。

例えばこんな感じ。

1曲目「ブランチができるまで」

「ブランチにはクレープを焼いて、ブランチにはマーマレード開けて、そしてテーブルには二つのモーニングカップ」

 当時、食生活は朝食・昼食・夕食の三食が常識。朝食と昼食の間の「ブランチ」って概念を知ったのはこの曲でした。「クレープ」。今でこそポピュラーな存在ではありますが、1983年当時、クレープとは「薄いホットケーキ」くらいの認識しかありませんでした。そして、大学生になったら彼女と同棲して、二つのモーニングカップなのか!と、男子高校生だった私は、心踊ったのであります。

6曲目「涙のスクールデイズ」

「ブックバンドにスニーカー、夢の重さを抱いて、みんな憧れ探してた。雨の降る日は、肩にスタジャン、やさしく彼がかけてくれたのよ」

 スタジャン、スニーカー、ブックバンド。これが大学生のベーシックなファッションアイテムなのか。いつか、このファッションで青山通りを歩いてみたいと思いました。30年後の今、このスタイルで青山で働いている私は、相当イタいおじさんかもしれません。

12曲目「一年の時から」

「一年の時からあなたが好きだったの。一度も噂にならなかったけど、ずっと。(中略)ネクタイ姿がよく似合うわよと褒めると照れてた、笑顔の前に出るとまぶしくてなんにも言えなくなる」

 大学を卒業後、社会人になってから、ターミナル駅でたまたま会ったかっこいい同級生のお話。もともと「同級生フェチ」だった私に、確信的な肯定感を植え付けた一曲。今でも、ときどき口ずさんでしまう「卒うた」です。


お恥ずかしながら、いつか『シャワーのあとで』のシティライフを!と思いながら、がむしゃらで働いた20代〜30代でありました。

幸いにもいま、私のオフィスは青山学院大学のすぐそばにあります。そんなライフスタイルにようやく近づいたと思ったら、川島なお美さんは亡くなり、私も40代後半に。しんみりとする秋の夜長です。


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