西城秀樹「ヤングマン」、1979年春の苦い思い出

2020年1月12日

西城秀樹氏が亡くなった。

シングル「恋する季節」で彼が歌手デビューをした1972年、私は5歳、物心ついた年でした。「傷だらけのローラ」リリースの1974年、私は小学校入学。「ブーメランストリート」リリースの1977年、私は10代に。そして「ヤングマン」の1979年、小学校を卒業。

ヒデキはまさに幼少の頃のスーパーアイドルでした。近所には何人もの「ちびまる子ちゃんのお姉ちゃん」のようなヒデキファン女子がいたなぁ。

だけど、セクシーで熱すぎるDur系のヒデキは、もやしっ子でmoll系の私には遠すぎる存在。新御三家(西城秀樹、野口五郎、郷ひろみ)の中では、野口五郎にシンパシーを感じてたっけ。

さて。

この度の西城秀樹氏の死去に際し、どの全国紙も「ヤングマン」という曲名を見出しにしています。

西城秀樹さん死去 63歳、歌手「ヤングマン」(日本経済新聞)
歌手の西城秀樹さん死去 63歳、ヤングマンなどヒット(朝日新聞)
西城秀樹さん、63歳で死去…「ヤングマン」(読売新聞)
西城秀樹さん63歳=歌手「YOUNG MAN」(毎日新聞)

「ヤングマン」は累計売上80万枚以上を売り上げた、彼の最大のヒットソングですから当然ですね。

実は私、「ヤングマン(YOUNG MAN)」というヒットソングには、とても苦い思い出があります。

「ヤングマン」は1979年2月21日にリリース。当時の私は、1979年3月上旬に私立中学校の受験を控えていました。小学校6年生だった1978年度の1年間は、夜、進学塾に通っていたため、テレビの歌番組をまったく見ることがありませんでした。そのため、その年のヒットソング、人気歌手をまったく知らなったのです。1978年度は、私の音楽史の中で空白の一年となっています。

そんな中、卒業式後の茶話会で、クラスごとに体育館のステージで何か出し物をやることになり、学級会では全会一致(正確には私以外)で、西城秀樹の「ヤングマン」をみんなで踊ろう!ってことになったのです。学級会の熱い空気を何となく覚えています。今でいうところの「ウェーイwww」という雰囲気でした。

ところが、私一人だけ「ヤングマン」って歌の存在を知らなかったのです!

早速翌日から、茶話会向けてみんなで「ヤングマン」の練習が始まりました。開始早々、みんな一緒に腕を交互に突き出して踊り始めるのですよ。「ワーイ・エム・シ・エッ」って満面の笑顔で盛り上がるのです。「ウェーイwww」って。

なのに、私一人教室の端でポカーンとしていました。あの時の疎外感は一生忘れそうにありません。

ポカーンと口を開けたままの鯉のぼり状態だった私を見かねて、6年間ずっと同じクラスだった女子が、放課後、私だけのために特訓してくれました。そのかいあって、茶話会までに何とか踊れるようになりました。

踊れるようにはなったものの、「ヤングマン」の歌詞は健康すぎて、明るすぎて、ハ長調的で、小学生時代から人生の通奏低音が嬰ハ短調、変ロ短調だった私には、この曲、まったく体質に合いませんでした。「ヤングマン」より、野口五郎の「私鉄沿線」の方が名曲だと、心の奥底でつぶやいてたっけ。

ふう……。

亡くなる寸前まで、熱くてセクシーな西城秀樹であり続けたご様子。スタイルある一生、私もそうありたいものです。ご冥福をお祈りします。


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