東京カテドラルのクリスマスミサに初めて参列して

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東京カテドラル クリスマスミサ
昨年のクリスマスイブ、初めてキリスト教のクリスマスミサに参加した。子供の頃、ボーイスカウトの活動の一貫でクリスマスミサに数回参加したことはあったが、あれは「団体行事」なので数に入れないでおこう。

私は、特定の宗教を信仰していない(あえていうと仏教徒だろうか)。ただ、人よりも神社仏閣にお参りする方だし、人よりもよく手を合わせる方だと思う。何ごとも唯物的・論理的に考えられない弱い存在だと自覚している。

ただ、「神は一人しかいない」という前提にはちょっと違和感があるので、キリスト教徒やイスラム教徒には向いていない気がする。「八百万の神」がしっくりする一般的な日本人だと思う。

若干、話は逸れるが、友人に熱心なクリスチャンがいる。私は小さな鳥居や祠に目が止まると、いつも思わず足を止めて手を合わせてしまうのだが、彼女は鳥居をくぐっても絶対に手を合わせることはない。「信者」「教徒」とは本来、そういうものなのだろう。

その点、日本では、仕事始めに職場単位で初詣に行く会社が多いが、あれは一神教の信者に対してハラスメントに当たらないだろうか? 実は昨年、勤務先の人事部に問題提起してみた。明確な返事はないが、ダイバーシティとはそういうことだと思う。

一見さんなので、大きな教会=カテドラルが安心かと

さて、クリスマスイブ。若い頃は、私もご多分に漏れず、華やかなシーズンイベントとして十二分に楽しんでいた。バブル全盛期は、ティファニーのジュエリーを女性にプレゼントしたこともある。水色の紙袋を持って駅前で待つ男性たち、今となっては苦笑する光景だ。

ただ、年齢のせいか、ふと「イエスの生誕祭」というクリスマスの本質的なところを知りたくなった。また、これだけクラシック音楽を聴きながら、ベースとなるキリスト教についてちゃんと「体」で感じてみたいと思った。それに、息子にショッピングスペースのイルミネーションではないホンモノを見せたいとも思った。それが、クリスマスイブのミサに出かけたきっかけ。

で、どこの教会に出かけるか? 地元の教会は“常連”の信者でいっぱいだろうし、私のような一見さんは門をくぐりにくい気がする。なるべく、大きな教会にしよう。ならば、首都・東京の一番メジャーな教会がいいと考え、カトリック東京カテドラル・関口教会に足を運んだ。ちなみに「カテドラル」とは、カトリックで司教のいる教会を指す。そんなことさえ、知らなかった。

東京カテドラルは目白台という台地の上にある。文京区のこのあたりは「台」と「谷」の起伏が激しい。地下鉄有楽町線の護国寺駅から歩いたが、これが失敗。谷から台へ上る細い路地に迷って、なかなかたどり着けなかった。早めに出発したつもりが、到着したのは18時45分くらいだった。

東京カテドラルの礼拝施設である聖マリア大聖堂は、建築家・丹下健三氏の設計。首都高速池袋線を走っていると、護国寺周辺でてっぺんに十字架がある鐘塔を見ることができるが、大聖堂に入るのは初めてだ。目の前にすると、外側は銀色のステンレス張りで、同時期に丹下氏により設計・建築された国立代々木競技場と兄弟のようだった。これは「社会、人々の心の暗闇を照らすキリストの光」を思わせるものらしい。

クリスマスイブこそ、暗闇を感じるべき

クリスマス・ミサは、17時・19時・22時・24時の4回行われる。私たちは19時のミサを目指して出かけた。あらかじめ関口教会のサイトを見ると、「17時、19時のミサは大勢の方の参列が予想されます。安全を考慮して入場を制限させていただき、次のミサにお回りいただく場合があります」という注意書きがあった。

公式サイトのとおり、すでに大聖堂の中はたくさんの信者で満ちていた。通常の座席のほかに、かなり多くのパイプ椅子が用意されていたが、そこにも座れなかった。前方の祭壇は見えないが、聖母マリア像近くに座れるイスがあったので、こちらで待機。

やがて19時と共に、大聖堂内の明かりがすべて消されてミサが始まった。真っ暗になっても、しばらくスマートフォンの画面の光が聖堂内で散見したが、やがて神父の呼びかけとともに真っ暗に。

クリスマスといえば、今や輝くイルミネーションに彩られた街の風景を思い浮かべがち。しかし、「イエスは暗闇の中で生まれた光であるから、まず暗闇を感じることが大切」ということだ。

ミサの中で私が一番共感したのは司祭の説法だった。「今、インターネットが発達し、さまざまな情報が光のように世界に溢れている。そんな光があふれる中で、本当に大切な光を見えなくなっている。暗闇を灯す一つの光を感じてほしい」。そんな趣旨だった。

確かに、クリスマスイブこそ光ではなく暗闇を感じるべきなのだ。

西洋音楽のベースをミサで体感

1時間半ほど時間を通して思ったのは、ミサは常に音楽と共に進められること。典礼で音楽が重要な役割を果たすのは、カトリックの特徴だろう。

式次第には五線譜の楽譜が数多く掲載されている。ト音記号、音符の高低、音価等、最小限の「楽典知識」が求められる。小学校でこれらを学んだ我々と違い、学校教育普及前の聖歌は、どのように教えられていたのか? 近代以前のミサの光景に思いを馳せた。

東京カテドラル クリスマスミサ
長い残響の大聖堂に響くパイプオルガンの音、レベルの高い合唱、ロベルト・シューマンが『音楽と音楽家』の「座右の銘」の中で、よい音楽家になるには、合唱では中声部を歌うこと、オルガンを弾く機会があれば絶対に弾いて、響きに耳を澄ますようにと述べている。ここが西洋音楽のベースであることを体感できた。幼い頃からピアノやバイオリンに触れるよりも、教会で合唱とオルガンの響きに触れる方が本質に近づけるのでは?なんて思った。

ただ、その一方で、信仰と音楽が表裏一体であることを知ると、私は心のどこかで西洋クラシック音楽の“奥宮”には、やはり踏み入ることはできないような、そんな残念な気分にもなった。

ミサの最後に、長い長い列に並んで、白ひげの仙人のような神父から祝福をもらった。帰宅後、公式サイトを見ると、先ほど説教されていた西川哲彌主任司祭だった。

ミサ終了後、教会の出口へ向かうと、英語や中国語を話す外国人が多数いた。都内の外国人信者が多数参列していたようだ。

ここ20年間にない有意義なクリスマスイブだった。次回は深夜0時のミサに参列してみたい。

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