感想/アリス=紗良・オット ピアノリサイタル

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今日は、所沢市民文化センター ミューズへ、アリス=紗良・オットのリサイタルを聴きに出かけました。

彼女の演奏をライブで聴くのは2度目。1年ちょっと前に、オスロフィルの来日公演で、グリーグのピアノ協奏曲を聴いてます。

アリス=紗良・オット&オスロフィル公演の感想(2014/3/22)

その時の感想として、こんな風に書いています。

(第三楽章までは)「なんだ、こんなものか」とちょっと落胆しましたが、三楽章はまるで違っていました。独特のグルーヴ感あるリズムで、一楽章、二楽章の眠気が吹っ飛びました。ビジュアルとは裏腹に、このピアニストはリズム感が持ち味なのかも。

そう、リズム感というより、グルーヴ感が印象的だった。

それからこんなことも。

舞台への出入りもちゃっちゃとしていて、アーティスト写真で見る優雅なイメージとはちょっと違っていました。そういえば、ルフトハンザの客室乗務員の女性の身のこなしって、こんなサバサバした感じだったな、と。

デビューした頃は、長い黒髪が華やかなドレスに映え、“美しすぎるピアニスト”の名にふさわしいビジュアルでした。が、最近の広告では、都会的で奔放なイメージが全面に押し出されて、彼女本来のキャラクターにマッチしてきたような気がします。

アリス=紗良・オット

演奏会場に早めに到着、パブリックアートを楽しむ

さて、所沢ミューズと彩の国さいたま芸術劇場は、家からバイクで30分弱で行ける私のホームグランド。特に所沢ミューズへは、この4年ほど、「WEEKEND PIANO SERIES 休日に燦めくピアノの響き」という年3回公演のピアニストリサイタルに、欠かさず出かけています。休日の昼間、同じホール、同じスタインウェイで聴いているので、ピアニストごとに比較できるところが面白いところ。

所沢ミューズ今日は昼から天気が回復したので、バイクで出かけました。開場は14時30分、開演は15時。会場には14時30分に到着。せっかく天気がいいのでホールに入るのはギリギリにして、外のベンチに座って軽くお茶にしました。すると、これまで気がつかなかったものが目に入ってきます。

ホールの前には、若女子の彫刻があったんだ。今まで気がつかなかった。吉野毅作「夏の終わり’91」と書かれてます。おかっぱ頭のすらっとした女子。

文化施設の周辺って、どこでもこんなパブリックアートがあるものなんでしょうね。ただ気がついていないだけ。こういうのを演奏会の前奏曲として楽しむためにも、演奏会会場は早めに着くようにしたいと思いました。

彼女の持ち味はやはり「グルーヴ感」だな

さて、今日のプログラムです。

ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調『テンペスト』Op.31-2
バッハ/幻想曲とフーガ イ短調 BWV944
バッハ(ブゾーニ編)/シャコンヌ
(休憩)
リスト/愛の夢 第2番 ホ長調、第3番 変イ長調
リスト/パガニーニによる大練習曲 第1番、第2番、第6番、第4番、第5番、第3番

前半がドイツもの。後半が十八番のリストのエチュードでした。演奏を聴き終えて、「!」と思ったところと「?」と感じた点が半々。ただ、モダンピアノについて、いろいろと考えさせられたという点で、とても印象に残る演奏会でした。

まず、「!」と思ったところから。

やはりグルーヴ感ですね。特にバッハの「幻想曲とフーガ イ短調 BWV944」のフーガを、クラブミュージックのようなグルーブ感でもって聞いたのは、今までにない体験だった。もしや、バッハがオルガンで弾いたライブパフォーマンスというのは、こんなものだったのだろうか、と。思わず肩をゆすってしまいそうになった。

何かが一般のクラシック音楽のピアニストと違うのでしょう。ジャズの「横揺れ」に近いリズムを感じました。下の動画でそのエッセンスを感じてもらえると思います(1分7秒くらいから)。

それからリストのパガニーニ練習曲はやはり圧倒的でした。華麗でダイナミック! ホールでグランドピアノを鳴らしきる、ライブパフォーマンスの醍醐味を満喫できる演奏でした。演奏終了と共にブラヴォーの声と、立ち上がって拍手をする人たち、リストはきっとこんな風な演奏で聴衆を熱狂させたのだろうな。

バッハの「シャコンヌ」への違和感

一方「?」と思ったのは、ベートーヴェンの「テンペスト」とバッハの「シャコンヌ」。

ベートーヴェンのソナタのような構造や様式という「枠」がある楽曲は、なんだか窮屈な印象を持ちました。彼女の魅力である直観と感情の表出が、「枠」の中に閉じ込められてしまったような。

それからバッハの「シャコンヌ」。これは趣味嗜好の問題ですが、あまりにも壮麗すぎて私は苦手でした。極彩色の寺院を見るような感じでしょうか。

彼女のパレットにはいろんな色の絵の具があるんだけど、ビビットカラーが主体で、中間色やモノトーンが少ない気がしました。そのため、ラッセンやヒロヤマガタの絵画のように私には感じてしまうのです。

それがリストのパガニーニ練習曲なら刺激的な絵画になるのだけど、「シャコンヌ」は違和感がありました。もちろんハッとする瞬間もありました。特にラストの空中に浮かび上がるような主和音は素晴らしかった。それでも全体を通して「?」と感じたのは正直な感想です。

ところが、演奏終了の0.5秒後には「ブラヴォー」の歓声が多数上がりました。「え、マジですか!」、私の感性がおかしいのかと自信がなくなりました。

10代の価値観は死ぬまで拭えないのかな

一晩、いろいろと考えました。

で、思い至ったのは、私の場合、バッハの「シャコンヌ」、というよりモダンピアノで演奏するバッハのクラヴィーア曲は、10代の頃、繰り返し聴いたタチアナ・ニコライエワのLPレコードが大きな軸となっていて、そこからよしあしを判断しているんだろうな、ということ(もう少し正確にいうと、一番下にニコライエワ、左上にグレン・グールド、右上にアンドラーシュ・シフという点で描いた逆三角形でしょうか)。ニコライエワの荘重なシャコンヌが前提となっているようです。

ところが、よくよく考えるとこの価値観は何かおかしいかも。だって、シャコンヌはもともとバイオリンの独奏曲で、それをブゾーニがモダンピアノの可能性を追求して編曲したもの。ライブパフォーマンスのためのアレンジだったに違いありません。

グールドとニコライエワは芸風は違っても、レコード(まさに「記録」)という表現の上にシャコンヌを「残した」わけで、そもそもブゾーニのアレンジの趣旨とは違っていたのでは。 むしろあの楽曲への正しいアプローチはアリスなのかも、とも思いました。

うーん、演奏会での違和感の元はそこだけではないな。

むしろ演奏と(一部)聴衆が一体となった「熱狂」に対して、疎外感を持ったことなのかもしれません。

私、最後の音が終わらないうちにガーッと拍手をされるのってダメなんです。あれ、すごくテンションが下がるのです。あと、数多くのピアニストの演奏会を聴いていますが、演奏終了後にヒューヒューと手笛が鳴るのを聴いたのは初めてでした。まぁ、クラシック音楽ファンもいろんな聴衆がいますし、同じお金を払っても楽しみ方はそれぞれですから。

ただ、私の居場所じゃないなと思いました。あぁ、オレって嫌な奴?

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