「諦め」について、雨に濡れた桜を眺めつつ

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桜
あまり愚痴っぽいことはブログに書きたくないものですが、ここ2年ほど、公私ともに厳しい時期が続きました。心に余裕がないと、目に映るものをポジティブに見ることができないものです。特に春の桜が苦手でした。満開の桜を見ると、すさまじく気分が滅入りました。

西行の和歌がわかり始めてきた(2012/4/10)
桜の開花よりも紅葉の芽吹きを(2013/3/20)
満開の桜、在原業平の心に共感する(2014/4/6)

私が天邪鬼なのかもと悩みましたが、西行、在原業平、蜷川幸雄氏と、桜の花を苦手にした古今のクリエイターたちがいることを知り、ほっとしたりしました。

「多くの人は桜が咲くと浮かれて、お花見に繰りだす。ぼくは逆だった。桜が咲くとどうにも気分がふさいで、お花見の場所を避けるようになった。(中略)桜と同じく回復には時間がかかった」という蜷川幸雄氏の言葉は救いでした。

昨日、花冷えの中、桜並木を歩きました。青空に映える桜ではなく、雨に濡れる桜だったからでしょうか、ここ数年にない平静な心持ちで桜を受け入れることができました。

諦め、ですかね。

最近、読んだ元陸上選手の為末大氏の著書『諦める力』にこんなことが書かれていました。

 何でもかんでも手当たり次第に手に入れることで、幸福が得られるわけではない。
 むしろ、ある段階がきたら「もうこれはいらない」と手放していくことで、幸福が近づいてくるのではないだろうか。最近の僕はそんな風に思うようになった。
 「何も諦めたくない」という姿勢で生きている人たちは、どこか悲愴である。
 仕事も諦めない、家庭も諦めない、自分らしさも諦めない。なぜなら幸せになりたいから。でも、こうしたスタンスがかえって幸せを遠ざける原因に見えてしまう。

バブル世代である私は、仕事においても家庭においても、またピアノにおいても、無意識のうちに「成長と獲得」に囚われていたような気がします。例えば、ショパンのピアノ曲は全曲を耳にしたいほど素晴らしいけれど、これから私が全曲を(満足できるレベルで)レパートリーにするのは無理。「だけど、バラード、スケルツォのうち、一曲だけなら」と絞ることが、諦めることでしょう。

「諦める」というとネガティブな語感がありますが、「集中と選択」と言い換えてもよいでしょう。そういえば、この本の前書きに「諦める」という言葉の語源は「明らかにする」ということと書かれていました。

「やりたいこと」と「やれること」、「なりたいこと」と「なれること」。確かに、そろそろ自分の能力の限界値を明らかにし、「集中と選択」をすべきかもしれない。

そんなことを、雨に濡れた満開の桜を眺めながら、思いました。